仮想通貨とは何か

金融取引の基本的な考え方

 金融取引というのは基本的に物理的な実態が存在しない経済的価値を取引するものと考えられる。株式・通貨・債券といわれて具体的な物の形が想像することができないことは理解できるだろう。わかりづらいのは商品取引(コモディティ)であり、貴金属や原油、穀物などは物理的な実態がある取引であると考えられるかもしれない。しかし、金融市場で取引されるコモディティ取引というのは現実に物理的実体としての貴金属や原油、穀物の受け渡しを行うということがほとんどない。先物取引では、反対売買でポジションを相殺したり、清算日に差金決済してしまう取引がほとんどであり、コモディティを取引しているというより、コモディティの価格を表象した物理的な実態が存在しない証券を取引している、という方が実態だろう。

 デリバティブ取引の中でもオプション取引といわれる取引は、将来において株式や通貨を特定の価格で売買する権利を売買する市場であるが、本質は金融商品の価格の値動きの大きさ(ボラティリティ)を売買する市場であり、オプションを売買することは、ボラティリティを買う、ボラティリティを売る、と表現される。当然のことながら、ボラティリティには物理的な実態は存在しない。ボラティリティ指数はしばしば恐怖指数といわれるが、オプション取引は恐怖や不安に対する保険を売買しているといえるかもしれない。

この世に値段を付けられないものはない

 上記のように考えると、金融商品の価格というのはいったい何なのかという疑念が生じる。株式や通貨、債券であれば実体のある財やサービスに交換することができるため、価値があるのは理解できるだろう。一方で、ボラティリティは明らかに財やサービスに交換することができるものではない。本来は価値を持つはずがないものに値段を付けて取引していることになる。実際、デリバティブ取引はゼロサムゲームであり、誰かの利益は誰かの損失になるということで、取引開始から取引終了時までの間に何ら新しい価値を生み出すことなく消滅する運命にある。

 このように考えると、ゼロサムゲームであるならばどのようなものであっても値段を付けて売買することができることになるかもしれない。いやいや、愛や思い出、人の命はプライスレスだろ、非情なこと言うなと思うかもしれないが、現実には人間はこれらのものにも値段を付けていると考えられる。わかりやすいのは愛であり、結婚であれ恋愛であれ夜のお店であれ、基本的には女性の提供するサービスを男性が金で買う市場であることは容易に理解できるだろう。

 では仮想通貨は何に値段を付けて取引している市場なのか、ということであるがそれは次のようなものであると考えられる。

法定通貨の不信感を売買する市場

 通貨の本質は信用や信頼(Trust)だという説をいう人もいる(筆者はそうは思わないが。)が、仮想通貨の市場の本質は不信感(Distrust)の市場であり、法定通貨の不信感の値段が仮想通貨の価格だと考えられる。昔から、こういった指標を担っていたのは金の市場価格であり、有事の際や法定通貨の信頼が揺らぐ状況では金の市場価格が上昇するという事象が生じることはよく知られているだろう。仮想通貨がデジタルゴールドといわれるのは、そういった役割を担っているためであると考えられる。

 資本主義的な先進国で生活している人々にとって法定通貨の価値が信用できないなどということは想像しがたいかもしれないが、発展途上国や社会主義国では法定通貨や銀行預金というのは安心して保有できるような資産ではない。こういった国の中には、貨幣や銀行預金など所詮政府の持ち物であり、いつでも国民から没収できるような代物と考えて間違いないケースも少なくないだろう。このような国では真の私的財産というのは政府が関与したり、没収することができない形態の資産でしかありえない。

 仮想通貨、あるいは、暗号資産といわれる金融商品は、見かけ上はそういった要件を満たしている仕組みの資産であるように見える(実体はかなり怪しい部分もあるが。)。このように考えると仮想通貨に求められる第一の機能は、日常の財やサービスを売買できる決済の機能ではないことがわかる。第一は価値の保存機能であり、それを政府や社会、第3者から侵害されない機能というのが最も重視されるべき機能だろう。加えて、次で説明するように仮想通貨はその性質上、財やサービスの交換に用いることに適さないため、法定通貨と交換することが容易であることが機能として求められることになる。

仮想通貨の機能

 上記のようにに考えれば、仮想通貨が財やサービスとの決済に用いることができるということに大した意味は見出せないし、それができないということに大したデメリットが無いことは理解できると思う。要するに、法定通貨との交換さえできれば、わざわざ膨大な手間やコストをかけてまで決済機能のようなものを設けるインセンティブは仮想通貨の運営者側にも利用者側にも存在しないと考えられる。

 仮想通貨が持つべき最も重要な特性は、各国の政府や社会がその経済的な価値を没収することの難しさであるが、決済のような社会的な機能を持たせることは各国の政府の規制や関与なしで実現することは不可能であるため、仮想通貨に求められる機能と矛盾していると考えられる。要するに、名称とは裏腹に仮想通貨は決済機能というものを可能な限り持つべきではない、ということになる。

 仮想通貨に求められる唯一の機能は法定通貨との交換手段であり、それを可能な限り政府や社会とのかかわりなく実現する機能ということになるだろう。しかし、現実には利用者が期待するほどこの機能を満たし、実現してる仮想通貨というものは存在していないように見える。ビットコインやイーサリアムはいうに及ばず、マイナーな仮想通貨も各国政府の関与なしに法定通貨に換金することは容易にはできないだろう。こういった意味では、仮想通貨は所詮金融商品を売りつけるためのコンセプトであり、実体としては期待されるような機能は何も果たさないのかもしれない。

なぜ各国政府は仮想通貨をつぶさないのか

 各国の政府から見れば、仮想通貨が本来の機能を果たすとしたら、国家を統治する上での脅威であり、基本的には排除しなければならない金融商品であると言える。発展途上国が自己通貨以外の通貨を用いた経済取引を禁止したりするのは、外国通貨についてその流通を支配することができず、国民の支配・統治の脅威になるためであると考えられる。

 現実には、一部の国では仮想通貨の取引禁止が謳われるものの、多くの国では特に取引を妨げるようなことは行われないし、(政府の代理機関と考えてよい)金融機関や証券取引所はむしろ仮想通貨の取引を促進しようと努力しているように見える。それは実体としては流通している仮想通貨はその機能がすでに骨抜きにされており、ある程度各国政府の管理下にあるためと推測してよいだろうと思う。

 そのような状況であれば、仮想通貨の取引が活発になるほど、金融機関は取引手数料を獲得できるし、政府は税金を徴収できるため、特に仮想通貨の流通や発行、取引を妨げる理由はないということになるだろうと考えられる。デリバティブ取引のように、仮想通貨は本質的にはゼロサムゲームであると考えられるため、取引開始から取引終了時までの間に何ら新しい価値を生み出すことなく消滅する運命にあることに変わりはないように見える。ただ、法定通貨の不信感のようなものを数値化して、取引できるようにしたことには経済的な意義を見出してもよいのかもしれない。

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